1945-1985年

<日本理化学機器協会設立から高度経済成長の時代>

●終戦直後の日本経済

1945(昭和20)年9月2日には、日本政府が降伏文書に調印し、日本は連合国軍の占領下におかれることとなった。ポツダム宣言の執行のための連合国の機関、ダグラス・マッカーサー元帥を総司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ:GeneralHeadquarters)が日本に設置され、国政のすべてが占領行政のもとで行われるようになった。こうした状態は、1952(昭和27)年の平和条約の成立によって日本が独立するに至るまで続くことになる。
日本の産業は戦争により、生産設備の被災、物流の寸断、物資の不足など、壊滅的な打撃を受けていた。戦後は、GHQによる財閥の解体、復員兵や引揚者の帰国による急激な人口増加により、経済はさらに混乱した。特に、戦中に発行された国債・軍票が一斉に償還されたことによるハイパーインフレーション(戦後インフレ)は、経済の破綻を招いた。
物資統制が続く中、配給制度は形骸化し、全国都市部に闇市が形成され、法外な価格で物品や食糧が取引きされるようになった。いわゆるタケノコ生活と喩えられるように、人々は身の回りの衣類・家財などを少しずつ売って生活していた。

●終戦直後の科学機器業界

前述したように東京理化学器械同業組合は戦時中に解散、日本理化学機器工業統制組合はその機能を失っており、戦後の科学機器業界は、無組織状態であった。
しかも多くの業者は、工場や事務所を焼失していた。東京では、疎開した業者が戻ることができず、業務が続けられる業者はわずかにすぎなかった。大阪、名古屋においても同様の状況であった。
戦禍を免れた業者もあったが、その前途は決して明るいものではなかった。京都の島津製作所にはこんな記録がある。
「1945(昭和20)年10月再採用者 2,865人を決め、業務を再開した。まず、各地に分散、疎開していた工場を逐次閉鎖し、機械、要員を確保して、一日も早く生産を再開できる体制をとることに努めた。しかし、再建を進める中で、占領軍による工場、建物の接収は、再建の諸施策遂行に大きな痛手となった。1945(昭和20)年10月に福岡支店が接収され、次いで河原町本店、御池工場、東京支社と相次いで行われ、1946(昭和21)年8月には、三条工場北地区全部及び西地区の一部が接収された」(島津製作所)このように、戦争を乗り越えて残存した工場や建物は、GHQに接収されることもあった。また、戦禍を免れた業者の中には、パン焼き器、小型アミノ酸醬油製造機、サッカリン製造器といった、本業以外の製品を手がけて、生業を継続していた者もあったという。

●占領下の科学研究

一方、終戦直後の科学研究は、以下のようなGHQの指令によって非軍事化を目指した政策がとられていた。
1945(昭和20)年9月22日、研究の査察・報告の義務、原子力研究の禁止
同年11月18日、航空関係の研究禁止
同年11月23日、理化学研究所、京都帝大、大阪帝大のサイクロトロン破壊(サイクロトロンは研究機器であったが、GHQにより原爆製造機械という烙印を押されたため破壊された。のちにこの破壊行為は、米国科学界から非難されることになる)
同年12月24日、テレビ、レーダー、パルス変調式多重通信方式、電波近接・音声秘密通信等の研究禁止


軍事研究の禁止令とともに、多くの研究施設と研究員はGHQの管理下に置かれた。こうした動きに対し、当時、すべての科学研究活動が禁止されるのではないかという噂が流れたが、GHQの方針は民需を中心とした研究はむしろ積極的に支援していくというものであった。
こうしたGHQの政策によって、科学機器業界は他の産業に比べて、より早く復興の道をたどることになったのである。

●70年の歴史の始まり 日本理化学機器協会創立

戦後の混乱の中にありながらも、学校や官庁及び一部民間研究機関の再開はいち早く行われた。それに伴い、研究機器の需要は徐々に増えていった。また、GHQの管理下にあった研究機関からの注文もみられるようになった。
しかしながら、当時、資材の入手が困難な状況なうえ、物資の再統制が強化されていた。そのため、科学機器の業者は古い機器を修理したりするなど、必死の対応に努めていたが、供給が間に合わない状況であった。
そんな中、業界の監督官庁である商工省は、資材の配給と価格問題を円滑に処理するために、業者団体の結成を要望してきた。業界としても、需要に対応できないばかりか経営状態が悪化する業者も多く、資材の入手は喫緊の課題であった。
そこで、1945(昭和20)年10月、業界の有志が集まり、業界団体設立の準備に入った。この時、「業界団体を設立し、業界の復興を図る以外に、この困難から脱却する道はない」と評議一決し、強い意志で業界の再興に立ち向かっていった。
中心となったメンバーは、東京理化学器械同業組合の役員有志であった。入江照一、村橋素一郎、田中陽太郎の3氏が主軸となり、統制組合の機能復活を基本とした団体設立の方向で協議が進められた。11月に入り、島津製作所の監査役に就任した山川英蔵氏と、森川惣助(2代目)・鈴木惣八(2代目)の2氏が参画し、創立準備委員会が組織された。
そして、12月10日午後1時より、日本橋・森川ビル4階の講堂において、日本理化学機器協会の創立総会が開催された。日本橋は戦争による被害が大きく、約50%が焼失した地区である。まさに廃墟の中で業界の新しい第一歩が始まった。
出席者は29名、登録会員数46社だった。入江照一氏が議長となり、総会を主宰、理事長には山川英蔵氏を選任した。役員の人選については議長一任、後日発表することとして、理事7名、監事3名、評議員12名の定数を決定した。他に、入会金100円、会費月額80円が決められた。この金額はインフレが進行している中であっても、決して安い金額ではなかった。

●日本理化学機器協会の体制確立

創立翌年の1946(昭和21)年の年頭には、日本理化学機器協会の役員が決定した。

理事長 山川英蔵
理 事 入江照一、田中陽太郎、鈴木庸輔、関谷幸吉、小熊一信、八田健太郎
監 事 村橋素一郎、森川惣助(2代目)、丸谷重理
評議員 石山静雄、千野一雄、清水友吉、鈴木惣八(2代目)、萱垣栄一、渡辺静江、石本義二郎、栗田国衛、佐竹市太郎、吉田正直、鈴木弘、白井次郎
主 事 神林武雄、丸山宗太

事務所は、入江照一、鈴木惣八(2代目)両氏のあっせんによって、三和銀行室町支店の応接室を借りることができた。同協会の当面の活動は、当時の経済環境からみても、実質的に工業統制組合の業務を引き継ぐことであった。日本理化学機器協会の新組織の目的と事業活動は、次のように定められた。
【目的】
定款第1条
本協会は、理化学機器製造工業に関し、会員合同して事業の進歩発展を図るをもって目的とす。
【事業活動】
定款第6条
本会はその目的達成のために次の事業を行う
1.資材及び副資材の取得及び配分
2.生産品の割当て及び販売
3.生産品の規格統一及び価格の設定
4.生産品の検査
5.技術の調査研究

協会は、指定生産割り当て申請書を提出して、資材の割り当てを受け、会員に配給する活動を始めた。しかし、その割り当て数量は微々たるもので、例えばコークスの割り当て量が2トンだった場合、配給量は1社に100キロという量であった。とはいえ、統制下にあって、物資を獲得したことはまさに干天の慈雨だった。
こうして、戦後の貧困の中で発足した日本理化学機器協会は、会員の企業と生命を守る活動で始まったのである。
1946(昭和21)年1月16日の第1回役員総会では、「第6条第1号(資材及び副資材の取得及び配分)及び第2号(生産品の割当て及び販売)所定事業の取扱い量による生産割当て負担額」について、その取扱い量により、都度手数料の形式をもって徴収することとすると決議した。
さらにこの実行の効果をより確実にするために、「理化学器部会」「硝子器部会」「気象器部会」の3部会を設置し、部会ごとに関係事項を決議する組織体制とした。
同年2月12日の第2回役員総会では、資材調査のために、3部会よりそれぞれ資材委員を選出し、資材委員協議会の設立を決めて、会員の実情に合った資材確保を実施するようにきめ細かく策定している。実際の協議事項をみると、正式ルートでは資材の入手が困難であることなど、当時の厳しい状況を窺い知ることができる。
同年3月11日の第3回役員総会では、「公定価格設定に関する件」が議題となった。時局に適応する公定価格を設定すべく、部会ごとに取扱い品2、3点を、2、3の生産者の原価計算により算定すること、硝子関係の公定価格は、全国硝子組合にて作成し、化学局と交渉して、その写しを提出することなどが決議された。
4月11日の第4回役員総会では、「三・三新物価体系」に基づく、理化学機械の統制価格について協議した。「三・三新物価体系」とは、戦後のインフレにあたり、物価の安定を確保することを目的に、戦時中に施行された価格等統制令に代わって制定された法令である。戦前基準年に対して、物価が10倍、賃金が5倍のバランスで算定された。科学機器の価格は、1941(昭和16)年9月18日停止価格の10倍(木製品に限り15倍)を限度とし、その範囲内において協会にて査定申請、認可の上、実施することを商工省に上申する予定であることが理事長より報告された。
また、この総会において、協会が査定した統制価格が認可され次第、至急に価格表を作成し、会員に有料頒布することを決め、また、会員が価格表以外の新規製品に対する統制価格の査定を求める場合には、査定料として1製品に付き100円、協会が行う諸証明手数料1件につき2円、ただし、会員が紹介した会員外の者は、1件に付き5円を徴収することを決議している。
5月11日の第5回役員総会では、価格査定小委員会が審査の上、提出した価格表がほぼ了解を得た旨が報告された。さらに、協会が鉄鋼需要調整実施要綱に基づく、鉄鋼割当票発券団体として、第一次指定を受けたことも報告された。
以上のように、創立わずか5カ月余りで資材及び価格統制下における業界の対応体制が確立されたのである。
そして、5月24日には第1回通常総会が日本橋・森川ビル4階の講堂において開催された。出席会員は23名、委任状提出28名、当時の会員数は61社であった。

●科学技術の復興に向けて

終戦後の科学者や研究の状況に目を向けてみると、世間の人々と同様、困窮を極めていた。多くの科学者、技術者は終戦によって失業し、研究施設の多くは破壊、焼失によって、その機能を停止していた。
また、再開できたとしても、電気、ガス、水道の供給は制限され、研究器材も乏しく、研究がままならないという状態であった。さらに、インフレによる生活不安、研究目的の喪失など、研究者や技術者の精神的負担も大きかった。
1946(昭和21)年11月3日、日本国憲法が公布され、その翌年1947(昭和22)年5月3日に施行となった。国民主権国家として、日本は新しい時代へと動き出した。
科学技術に関しても、新しい時代の胎動が起こり始めた時期であった。
1946(昭和21)年、立ち遅れている日本の科学技術の振興を図るために、十数名の議員により発議された「科学技術の振興に関する建議案」が採決された。その内容は、今日にも通用する素晴らしいものであったが、現状に即したものとは言い難かった。しかしながら、その後の科学技術政策に与えた影響は、大きかったといえよう。


【建議案の要点】
1 国内各種研究所の統一的整備と画期的充実
2 科学研究費の飛躍的増額
3 行政の合理的科学的分化と科学技術者の行政枢要面への任用
4 科学技術教育の刷新強化と国民科学生活化の促進
5 科学技術者活用の強化、特に海外機関車の活用措置
6 新産業分野開拓のための総合的科学技術知能動員


この頃、GHQによる科学技術政策も進んでいた。1946(昭和21)年6月、GHQ経済科学局科学技術部は、東大教授の田宮 博(理学、微生物学者)、茅誠司(物理学者、のちに原子力発電を推進)、嵯峨根遼吉(物理学者、のちに原子力発電を推進)の3氏を中心に、学術研究体制の指導的組織として「科学渉外連絡会」を設置した。
この会が作成した「科学技術体制案」は、11月27日に開催された5者合同会議(帝国学士院、学術研究会議、日本学術振興会、文部省、科学渉外連絡会)に提議されて可決された。
この「科学技術体制案」の骨子は、現役科学技術者の総意を代表するために選挙をして複数の代表者を決め、その代表が議会同様に科学行政の審議を行う内閣直属の総合機関として科学庁をつくる。科学庁の責任のもと各省にわたる科学行政を活発に実施させる、というものであった。
文部省は、この改革案の意向に沿って、学術体制刷新委員会をつくるために、1947(昭和22)年1月7日に世話人(座長・尾高朝雄東大教授)を設置、8月11日に学術体制刷新委員を選出して委員会を発足した。その後、同委員会は議論を重ね、翌年、1948(昭和23)年に最終答申を決定し、その任を終えた。
この最終答申により、旧来の学術研究会議は廃止され、日本学術会議が誕生することになった。日本学術会議とは、日本の科学者の内外に対する代表機関であり、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする。
1948(昭和23)年7月10日、日本学術会議法が公布、翌年、1949(昭和24)年1月20日、内閣総理大臣の所轄の下、日本学術会議が設立された。それから今日に至るまで日本学術会議は、日本の学問と科学、および産業の進歩、発展に中心的な役割を果たしているのである。

●日本理化学機器協会近畿支部を設置

終戦後のインフレーションは、1949(昭和24)年のドッジ・ライン実施まで続いた。そのため、日本理化学機器協会が発足してから数年間は、資材の確保とインフレ下においての価格の設定が重要な課題であった。
この頃のインフレーションがどの程度であったか。例えば、1947年度の消費者物価指数は対年度比で270%、つまり1年で物価が2.7倍に上昇している。結局、戦後直後1945年10月から1949年4月までの間に、消費者物価指数は約100倍となったという。
そんな中、日本理化学機器協会の会員数は、1946(昭和21)年10月10日に開催した役員会の時には、94社にのぼっていた。しかも、東京の業者だけではなく、関西の業者が全体の20%を占めるまでになっていた。そのため、この日の役員会で近畿支部の設置を決議した。

近畿支部の役員は以下のように専任された。
支 部 長:松浦弥平氏(島津製作所)
副支部長:佐竹市太郎氏(佐竹化学機械工業)
理  事:白井次郎氏(白井松器械舗)
     柳本春三氏(柳本製作所)
監  事:前川信治氏(前川科学機器製作所)

●日本理化学機器協会 公定価格の改定と統制価格撤廃を目指す

1947(昭和22)年1月22日に開催した年初の日本理化学機器協会の役員会では、会員の事業と利益を擁護するために、昂進するインフレに対する対策が決議された。
それは、政府関係機関に強く働きかけるために、陳情委員、同時に価格審査委員を選任し、公定価格の改定と統制価格撤廃をめざすものだった。
公定価格改定については、物価庁を主目標に関係官庁に陳情活動を展開した。すると、物価庁は価格改定参考資料として貸借対照表の提出を求めてきた。この問題は、2月の役員会で協議され、各部会指定の会社で作成して提出することとした。
こうした運動は全産業にわたって全国的な規模で拡大していった。
3月3日、物価庁は諸統制品の価格を4月には一斉に改定する予定である旨を回答してきた。同会は、その結果を見た上で、改めて対策を立てることにして、推移を見守った。
そして、同年10月22日、「自由価格」が許可された。ついに、日本理化学機器協会が取り組んできた陳情活動は実を結ぶことになったのである。
協会は、自由価格への移行により価格の混乱を避けるために、物価庁の了解を得た「基準価格表」を作成して、会員に提供した。なお、理化学機器として疑義を持たれる類似的な機器については、統制価格が実施されているものもあり、その可否の認定は協会が行い、理化学機器と認められるものについては、協会が証明書の発行業務を行った。

●日本理化学機器協会 関連協会に協力

1948(昭和23)年2月24日に、日本理化学機器協会は臨時総会を開催した。これは、いまだ続くインフレにより会費増額を決めるためであった。前年の総会で会費を増額したばかりだった。しかしながら、1946年対比で生産財274%、消費財327%というインフレに加え、協会の事業拡大により経費も膨張し、業務運営が困難になっていたのである。よって、4月より会費を月額500円に増額することを決議した。
この臨時総会では、文部省教育施設局の指導で設立された「全国教育用品協会」に協会が加盟した旨が報告された。同協会に山川理事長を役員に送り、理化学機器の認識を高め、業界の地位向上に努めることになった。
また、戦後解体状態であった東京医理硝協会の再建に参画する旨も報告された。東京医理硝協会の再建は、度量衡、計量器の販売にあたっては、都の取締り権限を代行する自主取締りの実施を目的としたものであった。すでに戦前においては、1933(昭和8)年に設立された医科理化玻璃器組合連合会(東京医理硝協会の前身/東京医科器械同業組合・東京理化学器械同業組合・東京玻璃器商同業組合の連合組織)が、共通の課題である度量衡・計量器の販売免許取得についての事業を行っていた。

●日本理化学機器協会、商工会に改組

1948(昭和23)年の初め頃より、インフレの波は穏やかになっていった。そのため、政府は経済統制を漸次、廃止する準備を進めていった。それに伴い、政府は統制機構としての業界団体を廃止し、本来の意義であった産業団体を育成する政策に転じてきた。
日本理化学機器協会もそうした政府の方針に従って、解散することになった。
1948(昭和23)年5月27日、小伝馬町有和会館において、解散総会を開催した。当時の会員数は137社、出席会員38社・委任状68社であった。この時をもって、理化学機器の生産の再開、自由価格制への移行など、戦後の科学機器業界の再建に大きく貢献した協会の活動は役割を終えたのである。
日本理化学機器協会の解散と同時に、日本理化学機器商工会の設立総会が開催された。この商工会は、日本理化学機器協会の解散後も引き続き、会員の事業の擁護と会員相互の連帯を図るために設立され、協会役員が発起人となった。

日本理化学機器商工会の設立総会は、議長の入江照一氏のもと、新定款案審議が行われ、原案通り可決された。役員は出席会員の投票のもと選出、新役員の決議を経て会長が選任された。

会 長:山川英蔵
理 事:入江照一、鈴木惣八、田中陽太郎、小熊一信、栗田国衛
監 事:森川惣助、村橋素一郎、丸谷重理
評議員:清水友吉、千野一雄、石山静雄、萱垣栄一、柴田弘、加藤勇、石本義二郎、富山周蔵、伊藤達也

近畿支部役員は支部において選出された。
理 事:鈴木庸輔、佐竹市太郎
評議員:前川信治、柳本茂温、白井次郎

また、前協会員は無条件で新商工会の会員に移行することが満場一致で承認された。
科学機器業界は、日本理化学機器商工会の設立により新しい段階に踏み出すことになった。統制の時代から自主の時代へ。しかしながら、経済情勢は依然として厳しく、業界はまだ再建の途上にあった。


●商工会第1回役員会 3大事業を打ち出す

1948(昭和23)年6月4日、新組織の基礎的な体制作りを終えた商工会は、初の役員会を開いた。この会議において、その後の日本科学機器団体連合会、そして今日の(一社)日本科学機器協会の活動に至るまでの基本的な3つの課題が決定された。これは、会の歴史からみてももっとも意義深い役員会であったといえよう。
〈①会誌の発行〉
その決定の一つは、会誌の発行である。会の動静、会員の消息の報告、会員の連絡や親睦に資するとともに、事業経営の参考資料の提供を目的とした。翌月7月には、「N.R.K」と名付けられた会誌が創刊された。のちに、この「N.R.K」は「科学機器」と名称が変更されたが、現在まで一度の休刊もなく、全国組織の機関誌として毎月発行されている。
なお、創刊号はB6判で、「会の動き」「会員の消息」「雑録」「トピックス」「後記」という構成で、活字ではなく、丁寧な手書き文字で綴られている。
〈②カタログの発行〉
第2の決定は、業界としての「カタログ」の発行である。
この頃は、日本学術会議の設立に向けて準備が進められていた時期であり、そのため各学会の活動は活発になり、多くの研究成果が発表されるようになった。また、この年の初めには、理化学機器業界と最も密接な関係にあった日本化学会が、旧日本化学会と工業化学会と合併して新組織として発足、活動を始めていた。こうした動きにより、理化学機器の需要がこの頃より増大しており、カタログの発行が急務になっていたのである。
しかしながら、同業組合時代の「T.R.K」カタログは、すでに絶版となっており、個々の業者が持っていたカタログはその多くを戦災で失っていた。
この日の役員会では、金属、硝子、気象の各部会から委員を選出して型録編纂委員会を組織し、発行を急ぐこととなった。ところが、各部会が慎重に協議を重ねた結果、各部会の意見に相当な距離があること、また紙の入手難、資金の問題など乗り越えがたい問題が山積していることが確認された。
そのため、この議はしばらく見送り、時期を待つことになった。
とはいうものの、科学機器業界の現実はカタログの発行を切望していたため、戦前の「T.R.K」カタログ第3版を復刻することを決めた。
そして、1949(昭和24)年 4月28日、「T.R.K」カタログ第3版は、「N.R.K」カタログと名を変え発行された。
B5判・布張り・上製本・570頁の立派な装丁のカタログで、会員頒布価格は1部1,000円であった。山川会長は、このカタログの発行を喜びつつも、新カタログを刊行する決意を新たにした。
〈③展示会の開催〉
第3の決定は、展示会の開催である。この役員会では、この年の9月に日本橋・三越で開催する「教育用品展示会」(全国教育用品協会の主催)に参加することを決定している。後に、科学機器展は全日本科学機器展をはじめ全国各地で長年に亘って開催されるようになったが、そのスタートとなったのがこの教育用品展である。
1948(昭和23)年9月15日から22日までの8日間、「教育用品展示会」が三越3階フロアで開催された。会員の出品は19社、合同小間を設営し展示された。
開会1日目には、天皇・皇后両陛下、皇太后陛下がご観覧された。このとき、日本理化学機器役員は、天皇陛下から「教育のために、皆が力を併せてしっかりやってくれるように」とのお言葉を賜ったという。
18日には、三笠宮、義宮の両殿下が、22日には皇太后陛下がご来場、また会期中には各省の大臣、次官が来場した。
全来場者数は10万人にものぼり、科学立国、教育立国を目指して、敗戦から立ち上がろうとする国民のエネルギーが感じられる展示会であった。このエネルギーは、また科学機器業界の発展の原動力にもなった。
これら会誌の発行、カタログの発行、展示会の開催という三大事業は、今日の会の活動の中に中軸として受け継がれている。


●ドッジ・ラインの実施 デフレ不況に

1948(昭和23)年12月19日、GHQより経済安定九原則が、当時の吉田茂首相に指令された。これは、予算の均衡、徴税強化、資金貸出制限、賃金安定、物価統制、貿易改善、物資割当改善、増産、食糧集荷改善の9項目からなる経済政策で、インフレーションを抑制し、日本経済を短期的に自立化することを目的としていた。
翌年1949(昭和24)年3月7日には、その実施策として、いわゆるドッジ・ラインと呼ばれる財政金融引き締め政策が実施された。インフレと国内消費の抑制、輸出振興を軸とした1ドル360円という単一為替レートが設定され、輸入は高く輸出は安い金額で取引された。
これにより、インフレの進行はとまったもののデフレに一転した。日本経済は安定恐慌状態に陥り、中小企業の倒産が相次ぎ、失業者は増大した。大企業では人員整理が行われ、労働争議が激化した。やはり大規模な解雇を行った日本国有鉄道では、いまもなお謎が残る三大事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)が1949年に起こっている。
科学機器業界もやはり大きな打撃を受けていた。その状況は会誌「N.R.K」に掲載された投書をみてもわかる。
【投書】
目下業界一般、非常な金融梗塞で、各社とも相当多数の余剰商品を在庫して居られることと存じます。就きましては、之を最も有効に会員間で図り、少しでも多く商品を動かすようにしては如何かと思います。

1949(昭和24)年5月19日、日本理化学機器商工会となって初めての通常総会が開催された。3月末までの会員数は145名、1年前に比べて8名の増加をみた。
山川会長は、「N.R.K」の巻頭言「創立一周年を迎へて」の中で、次のように述べている。

今や経済九原則の実施により、特に、理化学機器の如く中小企業として立たねばならぬ運命を担っている業界においては、間近に迫った安定恐慌において、企業の合理化、金融の問題など、真に容易ならぬ事態に直面している。此の苦難を打開して、明るい将来に邁進するためには、業界相助くる団体の力をもってするより他に道がなかろう。 今こそ我々は、業界全体の力を結集して、未曾有の苦難に善処し、その生活権を擁護する道を究め、将に来たらんとする嵐にも、断じて挫折してはならないと思う。

さらに次号の「N.R.K」に掲載された六月随想で、山川会長はこう述べている。
経済九原則に伴う耐乏生活は、いよいよ現実に身に迫ってきた。深刻な金詰り、購買力の低下、企業整備等々、中小企業の悩みは加速度的に厳しくなってきた。

この頃の会の運営が、どれだけ悲痛な思いでなされていたかが窺える記事である。

●日本理化学機器商工会 法律第171号の撤廃運動

当時、科学機器業者の業務を圧迫していたのは、法律第171号「政府に対する不正手段による支払い請求の防止等に関する法律」により義務付けられた「原価計算書の提出」であった。この法律は、GHQの指示により、1947(昭和22)年12月12日に公布された。
多品種で少量を生産し納入する科学機器業者にとって、一品一品の原価計算書の作成は大変煩雑な作業であった。ともすれば、実践不可能な作業量となった。
例えば、数万円の納入代金を請求するために、数百枚の書類を作成することもあったという。一方、購入する側としても、膨大な量の書類を検討するのに相当な労力と時間を要した。そのため、支払いが不当に遅延するという結果を招き、会員の多くが営業困難となった。
この事態を打開するために、日本理化学機器商工会は、原価計算書のひな形を作成し、これに重要資材の公定価格を添付して会員に配布した。当時にあっては、これが会員の営業を擁護するための唯一、かつ最善の策であった。
1949(昭和24)年9月の役員会では、関連団体と連携して、法律171号の撤廃請願運動を展開することを決議した。ともに運動に協力してくれた関連団体は、東京硝子製品卸商業協同組合、東京医科器械同業組合であった。会からは、森川惣助氏、鈴木惣八氏の両役員を代表委員に推薦した。
早速「法律171号の撤廃又はその適用外要望趣意書」を作成し、衆参両院及び関係当局に請願・陳情を行った。
会からの陳情は、政府関係者に受け入れられ、会として初の政治活動は成功へと向かいつつあった。さらに、森川代表委員が会員に対して、「知り合いの国会議員、官庁、新聞社、雑誌社などの有力な方々に、この運動について語っていただきたい」と業界をあげて取り組むように協力を呼びかけた。
そして、ついに翌年の1950(昭和25)年2月、GHQは日本政府に法律第171号を廃止する立法措置を通達。5月20日、その廃止が公布され、2年有余の間、業界を苦しめていた法律第171号の呪縛から解き放たれた。
法律第171号の撤廃運動は、会員の強い意思と会の適切な指導、森川代表委員の献身的な努力、そして関連団体との強固な連携活動によって、成功を収めることができたのである。

●「N.R.K」カタログ再版など、たゆまぬ歩みを続ける

多難な環境下にあっても、日本理化学機器商工会は一歩ずつ活動を進めていた。そうした中、日本に朗報が舞い込んだ。 1949(昭和24)年、湯川秀樹博士が日本人初のノーベル物理学賞を受賞したのである。この朗報は敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えた。
日本理化学機器商工会の山川会長も、先の法律第171号撤廃運動の渦中にあったが、「N.R.K」の随想において、湯川秀樹博士の功績を讃え、「吾等の絶大の歓びであり誇りである」と寄せている。
会の動きに話を戻すと、1950(昭和25)年3月、渋谷東横百貨店で開催された「新しい教育と教材展」に出品。また、1949(昭和24)年に刊行した「N.R.K」カタログが品切れとなり、また申し込みが途絶えない状態であったため、再版を決定した。
5月には、第2回通常総会を開催。委任状を含め、80名が参加した。なお、総会時現在の会員数は120社であった。この会において新たに役員が選出された。

会 長:山川英蔵
理 事:入江照一、森川惣助、伊藤達也、鈴木惣八、石本義二郎
監 事:柴田弘、富山周蔵、栗田国衛
評議員:村橋素一郎、萱垣栄一、清水友吉、千野一雄、加藤勇、石山静雄、小熊一信、吉田正直、丸谷重理


近畿支部
理 事:鈴木庸輔、佐竹市太郎
評議員:柳本春三、前川信治、円井房吉

●朝鮮戦争勃発による特需景気と日本理化学機器商工会の対応

1950(昭和25)年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍が、1948(昭和23)年に成立したばかりの大韓民国(韓国)との国境線(38度線)を超えて侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。
朝鮮戦争に伴い、米軍から日本に繊維・金属を中心とする物資が大量に発注された。ドッジ・ラインの実施により閉塞していた日本産業は軍需産業に奮って参入し、朝鮮戦争による好景気が日本経済を潤した。いわゆる「朝鮮特需」である。
鉱工業生産は1951(昭和26)年には、第二次世界大戦前の水準までに回復した。
特需景気により、日本の産業は莫大な資本を蓄積することができ、その資本力は設備の近代化に投入されていった。これにより、日本産業は新しい産業構造を構築していったのである。
科学機器業界においても、特需による需要が増大した。その中にあって、日本理化学機器商工会は、当時すでに資材は自由に購入可能であったが、太平洋戦争中の資材統制の経験から、戦争が長引くことを想定し、対応していた。会員に対し、生産月報の提出を要請して、資材購入資料を作成するなど、いざというときの準備態勢を整えていたのである。

●日本の独立 国内研究機関の整備

1951(昭和26)年9月8日、サンフランシスコ講和条約が調印された。この条約は翌年の1952(昭和27)年4月28日に発効となり、日本の独立が回復し、GHQによる占領から解放された。
政府は、GHQの占領政策によって生じた歪みを是正するために、国内研究機関の整備を実行するとともに、研究設備の改善に取り組んだ。そのため、政府の特別支出により、海外から科学研究機器を輸入するようになった。その主な例を以下に示す。
1951年 コリンズ式ヘリウム液化機、自動写真測量機
1952年 ベックマンの分光光度計、赤外線分光器など中でも赤外線分光器などの機器は、1953年頃から国産化が進められるようになった。こうした外国製品の輸入の政策によって、業界は外国製品に刺激されながら、科学機器の開発に積極的に取り組み始めるのである。
民間企業においても研究投資が活発となり、科学機器の需要は増大した。しかしながら、急拡大によって、一部では品質の低下を招き、ユーザーとのトラブルが生じることもあった。
日本理化学機器商工会では、この事態を憂慮し、機器生産において厳正な品質管理を訴えるとともに、一日も早く世界的水準に達する機器の開発を行うよう、会員に呼びかけた。

●商工会内に日本理科教育振興協会が設立

1948(昭和23)年に開催された「教育用品展示会」に日本理化学機器商工会が参加したことは前述したとおりである。 その翌年の1949(昭和24)年、この展示会に参加した商工会の会員の中から、教育用理化学機器業者としての特化した活動の必要性を認識した業者が集まり、グループとして結成されることになった。たしかに戦後、理化学機器は早期に行われた学校の再開により、教育用機器から復興が始まっていた。
まずは、内田洋行、八神理化器製作所、前川製作所、島津製作所、金子製作所、中村理科工業による6社協議会が設立。
その後、科学共栄社、三啓が参加して8社協議会となり、1951(昭和26)年に、商工会の中の組織として発足した。
商工会の中で独自の活動を続けてきた8社協議会は全国の製造業者と販売業者を結集し、商工会の中にとどまった形ではあったが、1963(昭和38)年、独立した組織として「日本理科教育振興協会」を設立した。のちにこの協会は、1972(昭和47)年文部省認可の公益法人として、さらに2013(平成25)年には公益社団法人に改組されることになる。

●日本分析化学会の創立

1952(昭和27)年4月3日、日本分析化学会が創立された。日本理化学機器商工会も発起人として加わり、創立に寄与した。日本分析化学会創立の背景には、スペクトロ・フォトメーター、赤外線分光器、マス・スペクトロメーター、ポーラログラフ等の分析機器の進化により、機器分析法が急速に発達してきたことがあげられる。
日本理化学機器商工会では、日本分析化学会の創立総会の当日、会場で付設理化学機器展を開催した。このことは、科学機器業界が学会活動の支援をしていくこと、そして互いに密着して発展していく礎石を築いた。
またそれは、分析機器の製造業者による日本分析機器工業会の設立にもつながっていくのである。日本分析機器工業会の設立は、1960(昭和35)年8月で、会員数は18社、初代会長には島津製作所の吉田正直氏が就任している。

●会の組織体制の拡大

科学機器業界における経済状況が上向くにつれ、会の組織体制も拡大・充実してきた。
商工会近畿支部では、従来、メーカーのみの加入資格が販売会社にも認められたことにより、大阪の69社が加入した。
この大量加入を機に大阪独自の活動を目指して、1952(昭和27)年4月、大阪部会が誕生した。
部会長には、佐竹市太郎氏、監事には青井捨三氏、田葉井五郎氏、岡野健次氏、西山等氏、松井一郎氏、須川竣一氏、中村一郎氏が選任された。
この組織変更を受けて、10月には近畿支部京都部会が設立。
部会長には、奥田滋次郎氏、監事に柳本春三、池本俊春、岸本岩太郎、高橋正一の各氏が選出された。
こうして、関西における組織体制が整ったのである。

●日本理化学機器商工会の新たな転機

1953(昭和28)年7月27日に朝鮮戦争の休戦協定が成立、3年間におよぶ戦争は現在に至る火種を残したまま休戦となった。世界経済は落ち着きを取り戻し、1949(昭和24)年10月に誕生した中華人民共和国の市場に目が向けられるようになっていった。 日本理化学機器商工会も、平和こそ科学機器業界が生きる道であるという認識に立って、中国貿易を推進する方向で論議が進められていった。
しかしながら、1952(昭和27)年に創設されたCHINCOM(チンコム、対中国輸出統制委員会)によって、対中国貿易は極度に制限されていた。チンコムとは、1949(昭和24)年、米国の主導で資本主義諸国を中心に構成された対共産圏輸出統制委員会(略称:CココムOCOM)の中国版で、戦略物資禁輸規定を定めたものであった。この戦略物資の規定の中に、科学機器も含まれていたのである。
1953(昭和28)年6月、会は討議の結果、理化学機器が戦略物資として取り扱われていることは大きな誤りであるとし、教育用理化学機器を禁止品目から除外する運動を行うことを決めた。
早速、「輸出貿易管理令第一条第一項に定むる品目中より教育用理化学機器を削除願ひたき件に関する陳情書」を作成して、通産大臣に提出、続いて文部省にはこの運動を支援してくれるように要請した。
これらの会の活動は、結果的に実を結ぶことはなかった。
しかし、会は常に会員の事業を擁護する立場を堅持して行動し、同時に業界の存在感を高め、地位の向上に大きな役割を果たしていることを示した。

●戦後10年、日本理化学機器商工会 創立10周年を迎えて

戦後の10年間は、まさに波乱の時代といえよう。科学機器業界にとってももちろん同様であった。当時の業界は、問屋資本主導型で、今日でいう「メーカー」の形態はまだ確立していなかった。需要の少ない時代であり、多品種、少量生産という科学機器の特性から見ても、職人の手作業に依存し、工場生産方式には成長していなかったのである。このため、製造業者は生産地問屋に所属する形態が長きにわたって続くことになった。
1950年をすぎると(昭和20年後半)、この流通関係に変化の兆しが表れてきた。製造業者がメーカーとして、独自の販売組織確立の方向へ歩み始めたのである。変化の遠因として考えられるのは、戦時中から戦後にかけて行われた資材統制であった。この資材統制は、相対的に製造者の力を強めることになった。一方、生産地問屋の資本力は、戦後のインフレの中で低下した。
以降、業界の構造が徐々に変化していくことになる。日本理化学機器商工会の活動により業界が発展することは、この変化を促進するものでもあった。
終戦から10年目の1955(昭和30)年になると、朝鮮特需から波及した輸出増加などによって、日本経済は神武景気という好景気の只中にあった。神武景気は、日本国始まって以来(神武天皇以来)の好景気という意味から名付けられたというのだから、どれほどの好景気であったろうか。日本経済は、その後、世界に例をみないほどの高度成長期に入っていく。
この年、日本理化学機器商工会も創立10周年を迎えた。科学機器業界は、ようやくその基盤が確立され、組織的にも経済的にも飛躍の転機となった年であった。
10月19日、芝白金の八芳園において、創立10周年の記念祝典を挙行した。この時の会員数は350社、創立時の46社に比べて7.6倍の増加を示した。
祝典には、来賓14名、会員100名が出席した。当時の会長・山川英蔵氏が式辞を述べ、会の歴史を振り返った。来賓の日本分析化学会会長の宗宮尚たかゆき行氏、通商産業省産業機械課課長の琴坂重幸氏、文部省管理局教育用品室長の三浦勇助氏、日本医科器械商工団体連合会会長の武井信義氏より祝辞をいただいた。祝辞の一語一語には、会の活動を讃えるとともに、業界が新たな時代を迎えるにあたって、さらなる発展に期待する思いが込められていた。

●科学技術庁の設置、中央研究所ブーム 新カタログの刊行を決意

神武景気の中、日本経済は戦前の生産水準を上回るまでに回復した。1956(昭和31)年に発表された経済白書には、「もはや戦後ではない」と記され、戦後復興期を脱したことが宣言された。冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが三種の神器と喧伝されたのもこの頃である。
しかし、復興が終了したとはいえ、日本は先進国と比べてまだ立ち遅れていた。今後、日本経済が発展していくためにも、技術革新は必要不可欠な課題であった。
1956(昭和31)年5月19日、科学技術に関する基本的な政策を企画、立案し、推進する機関として、科学技術庁(長官は国務大臣)が設置された。設立に際しては、当時推進されていた平和利用を基本とした原子力政策も追い風になったといわれている。 科学技術庁の設置により、「科学技術振興費及び国立大学研究費」が大幅に増加するなど、日本の科学技術振興政策は著しい進展をみせた。
ちなみに、科学技術庁が設立された翌年にはソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功、新しい科学技術時代の幕開けとなった。
民間企業においても、技術革新時代の到来による組織的な研究活動の必要性から、昭和30年代に中央研究所の設立が続き、「中央研究所ブーム」とまでいわれた。設立には、めざましい経済発展による資金的余裕も後押しとなった。なお、中央研究所以外の研究所、例えば技術研究所や基礎研究所などの研究機関も、このブームと時期を同じくして数多く設立されている。
科学技術振興政策や企業の研究活動の高まりによって、科学機器に対する需要が質、量ともに増していった。
こうした時代に対応すべく、日本理化学機器商工会では、かねてより懸案事項であった新カタログの刊行を決意して、編纂に着手することになった。
1956(昭和31)年5月に開催した第9回通常総会にて、新カタログの刊行を報告し承認され、1957(昭和32)年2月の役員会では実行委員会が組織され、編纂作業が開始された。

●科学技術教育振興予算要求運動に参加

1957(昭和32)年、5月27日に日本理化学機器商工会の第10回通常総会が開催された。当時の会員数は、352名、出席会員は委任状も含め、182名であった。
この総会では、全国理科教育振興推進委員会の春日重樹委員長、日本分析化学会関東支部の永原太郎副支部長、朝日新聞社の高木四郎氏を招き、講演会を開催した。
この講演会で、春日重樹委員長は、1カ月前に衆議院で可決された「科学教育と科学技術振興に関する決議案」について予算の裏付けをもった、具体性のある決議にしていくことを訴えた。この予算要求は、関係者との広範な連携による運動に発展し、同年11月には、科学技術教育推進協会の名で「科学・技術教育振興について」の陳情を行うに至った。この科学技術教育推進協会には、多くの教育団体が参加した。
さらに、全国理科教育振興推進委員会によって、理科教育振興に関する陳情が行われた。会はこれらの科学技術教育の拡充を目指した諸運動に、積極的に参加して、その成果の一端を担ったのである。

●科学機器講習会を開催

1957(昭和32)年7月に、日本理化学機器商工会は日本分析化学会の協力のもと「科学機器講習会」を開講した。このきっかけとなったのは、先の通常総会の講演会で、日本分析化学会関東支部の永原太郎副支部長が、「機器の急速な進歩に即応したセールスマン教育の必要性」を提案されたことにあった。会はこの提案に賛同し、講習会の企画準備に入った。
その際も日本分析化学会から、テーマや講師の選定において惜しみのない協力を得た。
「科学機器講習会」は9カ月の間に、12回にわたって開催された。終講にあたっては、終了証授与式を挙行した。このときに終了証を授与された受講者は113名にものぼった。この講習会は、会の歴史の中でも画期的な取り組みであった。
講習会の内容を以下に示す(敬称略)。その内容には、当時の科学機器の状況が現れている。


第1 回 分析について 武藤義一(東大助教授)
第2 回 温度計と加熱用具 水池敦(東大講師)
第3 回 硝子器具 河村文一(横浜国大助教授)
第4 回 比色分析 武者宗一郎(大阪府立大教授)
第5 回 pH測定 一色孝(東北大教授)
第6 回 ガスクロマトグラフ 荒木峻(東大助教授)
第7 回 放射能測定 三宅泰雄(教育大教授)
第8 回 分析用硝子器具と種類の選定 安永正義(三井化学目黒研)
第9 回 電気測定 鈴木繁喬(横浜国大)
第10回 ガス分析 岡宗次郎(東大生産技研)
第11回 pH測定の実際 益子安(中央温泉研)
第12回 食品分析用具について 永原太郎(食糧研)

●日本機械輸出組合の協力により貿易部会の設立

1957(昭和32)年5月に東京・晴海において「日本国際見本市」が開催された。これは産業貿易の振興を目的に開かれた総合展示会であった。ここでは、日本理化学機器商工会の会員20数社が科学機器コーナーを設置して出品した。科学技術振興政策の中で、科学機器産業の成長を示すとともに、これを機に業界内に海外への関心が急速に高まっていった。
そこで会は、科学機器の輸出を積極的に推進するための方策として、日本機械輸出組合の協力により、見本市終了後の7月17日、会員と貿易商社との懇談会を開催した。この懇談会において、基本的な問題がいくつか提起された。第一に、政府及び貿易商社の科学機器に対する認識及び理解が浅いこと、第二は、科学機器業界が海外市場の事情に疎く、また海外に宣伝する努力がなされていないことであった。
この論議を通して、まずは日本機械輸出組合と日本理化学機器商工会が共同し「英文ガイドブック」を作成して、貿易商社の協力により世界に配布することを決定した。この英文ガイドブックは1958(昭和33)年に第1版が刊行、海外のディーラー・ユーザーに配布され、2年に1度版を重ねて、第8版(98/99年版)に至るまで発行された。
また、この懇談会が契機となり、1957(昭和32)年11月貿易部会の発足に至った。部会への参加の呼びかけに40社の会員が応じた。この貿易部会の発足にあたっては、日本機械輸出組合の協力に負うところが大きい。英文ガイドブックの発行、欧米をはじめ各国の科学機器市場調査や海外市場視察団の派遣等などその後の部会活動は、日本機械輸出組合との連携によって1996(平成8)年まで遂行されていくのである。

●全国的な組織体制を整える

復興の波は力強く、新たな産業革命の時代を拓き、重化学工業化は全国に新産業都市を誕生させた。業界の活動においても、従来の本部中心の活動だけでは、発展が進む産業に対応することが困難になってきた。地域的な活動組織が必要になってきたのである。
先に記したが、1952(昭和27)年4月には、それまでの近畿支部を大阪部会、京都部会に分けて、新たな活動単位とした。
また1953(昭和28)年5月に、名古屋地区を東海支部に改称、同年8月には九州支部を設立。1956(昭和31)年、大阪部会は大阪支部に改称し、より地域性、自主性の高い活動体に生まれ変わった。
東京地区は会が創立して以来、組織の根幹であり、活動の主力であったために、本部直轄地区となっていた。しかし、社会情勢の変化と会の組織的発展は、東京地区独自の活動を必要とする機会が増えてきたことから、東京支部の設立が現実の問題となった。 1957(昭和32)年11月、東京支部が設立。翌年の1958(昭和33)年4月には北海道支部が設立されて、ほぼ全国的に組織体制が整ったのである。

●初の海外調査団 豪州・東南アジア市場調査団を派遣

1957(昭和32)年12月18日、発足間もない日本理化学機器商工会貿易部会は、日本機械輸出組合の提起による「東南アジア市場調査団」派遣を討議した。部会員全員に賛否を問うたところ、全員の賛同を得た。
海外調査団の派遣は、会としては初めての試みであり、しかも当時は海外への渡航は規制されていた。実現が容易ではない状況ではあったが、日本機械輸出組合による積極的な協力を受け、政府補助金の交付手続き、英文ガイドブック「SCI ENTIFIC INSTRUMENTS OF JAPAN」の作成など、慌ただしく準備が進められていった。
当時の日本の科学機器の輸出は、同じく戦後復興を果たした西ドイツの1,000万ドルに対して、わずか40万ドルに過ぎなかった。それだけに業界は、この調査団の派遣に大きな期待をかけたのである。
調査団のメンバーは以下のように決定された。(敬称略)
団長:森川惣助(商工会東京支部理事長)
団員:村岡重浪(島津製作所貿易部長)
   八神順一(八神理化器製作所社長)
   大槻敏夫(理学電機常務取締役)
   高橋仁爾(日本機械輸出組合)
調査団は、1958(昭和33)年7月20日午前8時30分発の便で羽田を出発した。その年の3月に発行された英文ガイドブック「SCIENTIFIC INSTRUMENTS OF JAPAN」を携えて、台湾、香港、タイ、シンガポール、マレーシア、オーストラリア、フィリピンの7カ国の政府機関、研究機関、大学などを訪れた。そして、9月9日午後5時に帰国。盛夏にあって、52日という長きにわたる視察活動であった。
実は、この調査団は業界派遣ではなく、日本政府の派遣という位置づけであった。そのため、空港にて記者会見を開き、この模様はテレビ放映された。この年は、東京タワーが完成した年で、世はテレビ時代に突入していた。
この初の調査団派遣以降、経済の成長に伴い、会員個々の海外への動きも活発化した。市場調査団の派遣も現在まで続けて行われており、日本科学機器業界と海外とを結ぶ重要な役割を果たしている。また、会では各国の科学機器に関する市場調査を行い、報告書を作成するなど、会員の便をはかってきたのである。

●日本科学機器団体連合会を設立

1958(昭和33)年に、全国に支部を設立し全国的な組織体制を整備した日本理化学機器商工会であったが、新しい組織形態が求められてきた。その背景には、技術革新の急速な進展による業界の構造の変革があった。科学機器を兼業で取り扱っていた全国各地域の業者は、専業の業者へと転換し、東京、大阪等の大都市を本拠地にしていた会員の多くが、マーケットエリアの拡大を目指して、全国各都市に支店、営業所を設けるまでになったのである。
各地区の活動分野が拡大されてくるに従って、全国単一組織ではそれぞれの地区の活動に対応するのが難しいケースが増えてきた。そのため、会は各地区が単一組織体としての独自の機能を持つことが、会の活動上もっとも有効であると判断した。 1960(昭和35)年3月19日の全国役員会で、会の機構改革について検討し、改革方針を決定した。当時の組織状況は、東京235社、大阪112社、京都33社、九州29社、東海25社、計434社であった。
1960(昭和35)年5月24日、日本理化学機器商工会の解散総会を開催した。同時に東京支部も解散して、東京科学機器協会が設立された。
同月、京都支部が解散して京都科学機器協会を設立、東海支部が解散して東海科学機器協会を設立、6月には大阪支部が解散して大阪理化学機器商工会を設立、同月、九州支部が解散して九州科学機器協会を設立し、各地区の単一組織化を終えた。
7月、連絡協議機関として日本科学機器団体連合会を設立し、山川英蔵氏を会長に選任した。業界の活動は新たな段階に入ったのである。

●会誌「N.R.K」は「科学機器」に

日本理化学機器商工会の会誌「N.R.K」は、創刊時のB6判から、1959年7月号(通算133号)で倍判のB5判となり、さらなる内容の充実を遂げていた。この「N.R.K」も組織変更により、名称が変更された。
長年会員に親しまれてきた「N.R.K」の名称は1960年6月号(通算144号)で消えて、次号の7月号から「科学機器」という名称で、東京科学機器協会から発行されるようになり、現在は日本科学機器協会が編纂し、全国各地区協会の会員にも配布され続けている。

●第1回全日本科学機器展の開催

日本理化学機器商工会時代より、展示会活動は注力している取り組みの一つであった。教育関係会議、日本化学会、日本分析化学会、日本農芸化学会等の学会の付設展示会の開催を通して、学会との連携を強めるとともに、科学機器のマーケット拡大に努めた。
そうした付設展示会を重ねるうちに、会員の中で輸出への意欲が高まり、有志による日本科学機器輸出懇話会が組織された。この日本科学機器輸出懇話会と合同で、日本理化学機器商工会は、1959(昭和34)年5月より東京晴海で開催された「日本国際見本市」において、「科学機器コーナー」を出展した。
このことを契機に、科学機器独自の専門展示会開催への機運が高まっていった。1960(昭和35)年7月には、科学機器展の開催が新組織の東京科学機器協会の役員会で決議された。
同年11月28日から12月3日までの6日間、「全日本科学機器展」(以下、全科展)が、大手町の都立産業会館の3階で開催された。日本工業新聞社との共催、日本科学機器輸出懇話会の後援であった。
出展数は、61社、109小間。来場数は連日、千数百名~二千数百名に及び、総計は約1万人という予想をはるかに上回る数で大成功を収めた。
来場客のほとんどは、科学研究・技術の専門家であり、全国の大学、研究機関、さらには台湾、韓国からも訪れたという。また、各地区の科学機器協会からも役員や会員が来場し、企業同士の相互研鑽の場ともなった。

●科学機器展の全国的広がり

第1回の全科展の成功は業界内に大きなインパクトを与えた。展示会のもつユーザーへの宣伝効果の大きさを改めて知ることになったのである。これにより、科学機器展は全国へと広がりを見せていった。
東海科学機器協会では、1965(昭和40)年10月5日から3日間、第1回最新科学機器展を名古屋中小企業センターで開催、また大阪科学機器協会では、1967(昭和42)年6月10日から5日間、第1回科学機器展を開催している。その後も、科学機器展自主開催の波は全国的に広がっていった。
近年までは、全国8地区で科学機器展が開催されていたが、現在では東京・大阪・名古屋で科学機器展が開催されている。
なお、全科展は「JASIS(Japan Analytical and Scientific Instruments Show)」(日本分析機器工業会との共同開催)という名称で、アジア最大級の研究開発・生産技術支援産業の総合展として開催されている。

●新カタログ「SIA科学機器総覧」苦難の末、刊行

1957(昭和32)年2月より編集が着手された新カタログであったが、作業はなかなか進まなかった。というのも、技術革新の影響により、新製品が多く、なおかつ機種が複雑多岐にわたるため、実態の把握に時間がかかったからである。
1957(昭和32)年11月に東京支部が設立されたのを機に、新カタログの編集作業を含めて、刊行は東京支部に付託することになった。
その後も編集作業は難航した。まず立ちはだかった壁は、掲載基準の決定であった。当時、科学機器は産業機械に属する機種を製作するまでに至っていた。その上、旧来の機種の中にもまだユーザーに使われているものがあったため、際限なく掲載機種が拡がっていく状況であった。
1959(昭和34)年に入った頃、ようやく掲載基準が決定し、掲載製品の分類へと作業が進んでいった。掲載製品の選定に当たっては、機種別専門委員会を開き、それぞれの委員会に関係各社が出席、了解のうえで調整した。機種別専門委員会の数は30種にものぼった。
そのような中、日本理化学機器商工会の組織変更が行われ、東京支部は東京科学機器協会となり、新カタログの刊行事業も引き継がれ、新体制で編集実務に臨むことになった。
それからさらに長い年月を費やし、編集作業を終えたのは1964(昭和39)年の暮れであった。
そして、ついに1965(昭和40)年5月、新カタログは「SIA科学機器総覧」という名で刊行された。
企画から9年越しの刊行であった。技術革新の中、新技術と新製品が次々と生まれてくる時代にあって、新カタログを作り出すという作業がいかに困難であったかを物語っているといえよう。

●調査団を積極的に派遣

1958(昭和33)年の初の市場調査団派遣以降、調査団の派遣が積極的に行われるようになった。
1961(昭和36)年7月には日本機械輸出組合の支援を得て、豪州・ニュージーランド市場調査団が派遣された。45日間という長期にわたる視察であった。
1962(昭和37)年4月には、会員の提案に基づいて企画した、欧州市場調査団参加者10名。団長・入江照一氏(入江製作所)が派遣された。英国の理化学機器業者団体SIMAとの会談とパリでの世界科学機器展示会の視察、関連会社訪問などが行われた。ここから、SIMAとの交流が始まり、1975(昭和50)年10月に開催された第15回全科展におけるSIMAの出展につながっていったのである。
同年5月には、カナダ・北米調査団による視察旅行が日本機械輸出組合の支援を得て実現し、1964(昭和39)年9月には、日本機械輸出組合の主催でソ連・東欧市場調査団による視察旅行が実施された。

●日本科学機器団体連合会 創立20周年を迎える

1965(昭和40)年、日本科学機器団体連合会は創立20周年を迎えた。創立時46社であった会員企業は、628社に上っていた。 振り返るに戦後、日本理化学機器協会の名で創立し、価格統制下における戦後のインフレーションを乗り越え、日本理化学機器商工会の時代には、ドッジ・ラインの実施、朝鮮特需、1955年の神武景気、1957年の鍋底景気、1959年の岩戸景気といった日本経済の荒波を泳ぎきった。1960(昭和35)年には日本理化学機器商工会から、地方単位の単一組織団体、連絡協議機関としての日本科学機器団体連合会といった新体制により活動を続けてきたのである。
新体制からの5年間、業界を取り巻く日本の社会はけっして穏やかなものではなかった。この新体制となった1960年は、日米安全保障条約にまつわる政治闘争、いわゆる60年安保闘争が展開された年でもあった。
政治的な混乱がありつつも、1960年代は技術革新により、石油化学工業や電子工業などの新産業が成長した時代であった。エネルギーは石炭から石油へ、家電製品が普及し人々の生活も変化していった。
1964(昭和39)年には、アジア初の東京オリンピック開催、世界最速特急の「東海道新幹線」開通と、高度成長の象徴ともいうべきイベントで日本中が盛り上がった。
科学機器業界は、新産業の成長により需要が増大し、発展を続けていた。1955年から10年間の科学機器産業の平均成長率は25~30%と推定されている。日本産業全体の年平均成長率は約12%であるから、その伸び率の高さがうかがえる。なお、金属工業は4倍強、機械工業は約7倍、化学工業は4倍強と、重化学工業の伸び率は驚くべき数字を示している。
一方で、高度成長のひずみにより、1964年の暮れから日本経済は不況に陥った(40年不況)。日本政府は戦後初である赤字国債の発行を行い、不況の拡大を防ぎ、高度経済成長は持続した。
なお、創立20周年を迎えた1965年という年は、朝永振一郎氏が「くりこみ理論の発明による量子電磁力学の発展への寄与」によって、ノーベル物理学賞を受賞した年でもあった。

●創立20周年記念祝賀式典の挙行

1965(昭和40)年、11月10日、日本科学機器団体連合会は東京科学機器協会と合同で創立20周年記念式典を開催した。 場所は開業間もない東京プリンスホテルである。参加者は、来賓、全国6地区の役員、東京科学機器協会の会員ならびに永年勤続優秀従業員表彰を受ける会員企業社員を合わせて210余名であった。
日本科学機器団体連合会会長の森川惣助氏の式辞では、20年間を振り返るとともに、会員と関係団体に向けて感謝の言葉が述べられた。そして、「今業界は、新しい経済発展の時代を迎え、さらには戦後第2の技術革新の時代が訪れようとしています。科学機器の進歩と調和を基調とし、業界のより一層の繁栄に努力されることを念願いたします」と締めくくった。またこの記念式典では、5名の来賓の方から祝辞をいただいた。


【来賓祝辞】(敬称略)
通商産業省重工業局長:川出千速
文部省初等中等教育局長:斎藤正
科学技術庁振興局長:谷敷寛
日本化学会会長:木村健二郎
日本工業新聞社:社長 稲葉秀三

〈注記〉業界内で、公的にも一般的にも「科学機器」という名称が使われるようになったのは、1960(昭和35)年の組織変更で、各地区の単一組織の名称を「科学機器協会」としてからである。それまでは、一般に理化学器械・理化学機器という名で呼ばれていたが、昭和30年代に入って、自動分析機器が出現、急速に普及したことにより、概念上、分析機器が理化学機器の範疇に収まらなくなったからといわれている。
これより以降、理化学機器・分析機器をはじめ一般に研究、開発のために使用される機器・器具設備等を総称して「科学機器」という名称に統一された。

<オイルショックからバブル経済崩壊まで>

●高度成長期を迎えて

1960年代後半の日本は、高度経済成長の最盛期にあった。すでに輸入・為替の自由化を進めていた日本は、1962(昭和37)年には輸入自由化率が88%に達していた。1964(昭和39)年には日本はIMF8条国に移行し、為替制限が原則撤廃され、1960年代後半には輸出が拡大し、国際収支も黒字基調に転じた。ベトナム戦争により、米国がアジアにおいて大量の資材を調達したことも、輸出拡大の一因であった。 日本経済は好調な輸出に支えられ、「いざなぎ景気」といわれる好景気が1970年まで続く。また佐藤栄作総理の長期政権のもとで、GNP(国民総生産)の成長率が約10%以上という高度成長が維持されていた。 1968(昭和43)年には、GNPは世界第2位に、1960年から10年間のGNP伸び率は第1位と日本は戦後から驚異的なスピードで経済大国へと変貌を遂げた。人々の暮らしも豊かになり、カラーテレビ、クーラー、自動車といった新・三種の神器と呼ばれる家電が普及していった。
そうした高度成長期のなかで、科学機器のマーケットも拡大していった。しかしながら、高性能の研究機器は輸入製品に依存、もしくは輸入製品の水準に達していない製品もあり、日本の科学機器業界はまだ成長の過程にあった。

●海外初の特別展「第1回シカゴ・日本製科学機器特別展」

日本製品が世界に輸出され高評価を得るなか、日本製科学機器も海外市場に積極的に参入しようという活動が始まっていた。まずは、ジェトロ(日本貿易振興機構)の呼びかけにより、米国市場での足場を築くことを目的に、海外における初の単独展示会が計画された。すでに日本製科学機器の対米輸出では、個々の大手メーカーが独自に、もしくは商社を通じて行われていたが、この展示会は政府の中小企業輸出振興政策の一つとして企画されたもので、日本科学機器団体連合会とジェトロの共催で行われることになった。
そして、1966(昭和41)年3月14日~ 18日、米国シカゴ市のジャパン・トレードセンターにおいて、「第1回シカゴ・日本製科学機器特別展」が開催された。出品会社は19社、特別展団長は当時の理事の三田村伍郎氏、参加団員は12名であった。 さらに、その2年後、1968(昭和43)年4月22日~ 26日、同場所において「第2回シカゴ・日本製科学機器特別展」が開催された。出品会社は12社、特別展団長は平林勇氏、参加団員は2名だった。当時、日本科学機器団体連合会会長であった森川惣助氏はのちに行われた座談会で、このシカゴ展が日本製科学機器を海外で認識してもらう上で、大きな成果を挙げたこと、海外への活動の原動力になったことを語っている。

●世界最大級の化学見本市 ACHEMA視察を実現

輸出に向ける活動が進む一方で、前述したように日本製科学機器の多くは欧米と同じ水準に達しているとは言い難く、外国の技術を導入する必要があった。そこで、業界内の一部では、ドイツ・フランクフルトで3年ごとに開催されているACHEMA(アヘマ:国際化学技術・環境保護・バイオテクノロジー専門見本市)に関心が寄せられていた。そもそもACHEMAは世界最大級の化学見本市として、日本の化学関係の学者、研究者、技術者の多くが高く評価していたイベントであった。
そうした中、1970(昭和45)年のACHEMA’70に、東京科学機器協会の有志10名が視察を行った。視察団が得た情報が東京科学機器協会内に伝わるとその意義が認められ、次回のACHEMAでは協会事業として視察団を派遣することが決まった。
そして、1973(昭和48)年に開催されたACHEMA’73では、会員191名(医師、添乗員を含む総勢195名)という大規模な視察団(団長は矢澤英明氏)が派遣された。
また、同視察団は途中で英国に立ち寄り、1962(昭和37)年の欧州市場調査団派遣時に交流を得た英国の理化学機器業者団体SIMAの歓迎を受けた。レセプションでは、SIMAの要職にある業界人をはじめ貿易関係の官公庁の役人など約40名が出席し、視察団と懇談、商談が繰り広げられたという。この時の交歓が、SIMAの1975(昭和50)年第15回全科展の出展へと結びつくのである。
さらに、大阪科学機器協会でも同じ時期に、初のヨーロッパ視察としてACHEMA視察が行われ、23名が参加した。ACHEMA視察と合わせて、英国BOC社及び西独ユーハイム社の視察を行った。

●日本の科学技術は新しい段階へ

1960年後半から1970年は、研究費の総額が顕著な伸び率を示した時期であった。具体的にいうと、1960年に1,844億円であった研究費が1965年には4,258億円に、さらに1970年には11,953億円と5年間で2.8倍という国民総生産を上回る伸び率となっているのである。これは、日本の科学技術が、外国からの技術導入に依存している段階から自主開発へと大きくステップアップしていったことを反映しているといえよう。
そんななか、米国のアポロ11号が1969(昭和44)年に人類初の月着陸に成功している。1961(昭和36)年にソ連のボストーク1号が初の有人宇宙飛行に成功したことにより、スタートしたアポロ計画がついに実を結んだのである。この歴史的な快挙は、世界中に科学技術の飛躍的な躍進と大きな可能性を示した。また日本の科学技術にとっては、技術格差を強く意識する出来事でもあっただろう。

●公害問題の深刻化 環境問題に対応した科学機器開発が急務に

高度成長期の裏で、産業活動による大気汚染や水質汚濁、土壌汚染などが進み、公害問題が全国規模で拡大していった。中でも水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくは四大公害病といわれ、多くの人々を苦しめた。
政府は公害対策基本法を1967(昭和42)年8月に施行し、公害対策に乗り出した。1970(昭和45)年には同法の全面改正と公害関係14法が制定され、公害規制が強化され、翌年には環境庁が発足した。日本のみならず、世界においても環境問題への対策は共通の課題となっていった。そのため、企業の公害問題に対する責務は重く、環境問題への対応は企業戦略の基調となった。
科学機器業界に対しては、環境管理及び環境改善に対応した新たな機器の開発が求められるようになった。環境問題は新しいマーケットを生み出し、東京科学機器協会の開催する1971(昭和46)年の「第11回全日本科学機器展」では、公害関連の新製品が多くを占めることになった。

●各地区二世会の誕生とYES

この頃の科学機器業界では、会員企業の事業継承が問題になっていった。そこで東京科学機器協会では、1967(昭和42)年2月に、30代の最年少の理事であった入江照四氏が、「2代目経営者は新時代にどう対処しているか」というテーマで座談会を開催した。
この座談会では、二世会をつくり、経営研究会や工場見学会などを企画しようという提案が出された。出席者は全員賛成し、二世会の設立が進められることになった。
同年7月には、設立総会が開催され、入会申込者44名、当日の参加者は38名であった。入江照四発起人が会設立の意義や性格について挨拶をし、森川理事長が「Boys, be ambitious !」のフレーズと共に船出を祝う言葉と若い力に期待を寄せる言葉を送った。
この会の名称は、多くの候補の中から「SJC: ScienceJuniors Club 」が選ばれた。さらに定期事業として、春の総会、秋の工場見学、暮れの懇親夕食会、さらに年に4 ~ 5回の勉強会を決定した。
その後、大阪のORKⅡ会、東海のJET、東北のSSJC、京都のASK、中国・四国のJACK、九州の久若会、北海道の青樹会と各地区に二世会が次々と設立された。
2000(平成12)年になると、これらの組織を母体に全国の二世会の交流の場としてYES(Young Executive of Science)が組織された。

●第11回全日本科学機器展 晴海国際展示場で開催

1970(昭和45)年10月13日から17日までの5日間開催された第10回の全科展は、都立産業会館の全館を借り切って開催され、出品会社数178社、小間数は585小間、来場者数は2万8,500人を記録した。全科展のスタート時(1960年)に比べると、出品会社数と来場者数は約3倍、小間数は5倍と大幅な増加を示していたのである。まさに、技術革新とともに、科学機器業界が発展していったことを象徴した展示会であったといえよう。
さらに翌年の「第11回全日本科学機器展」は、会場を都立産業会館から規模の大きい東京晴海の国際展示場に移して開催された。 第11回全科展は、出品会社数は226社、小間数は560小間、5日間で来場者数が4万9,263名と、これまでを上回る盛況ぶりであった。また、この展示会では初の刊行となった「科学機器総覧 第1版」がユーザーに無料配布された。これは、1965(昭和40)年に刊行された「SIA科学機器総覧」の欠点を補い、より有効な協会のカタログを目指したもので、収録製品数は2,457点という充実ぶりであった。この唯一無二の科学機器資料集を求め、来場者が殺到したという。

●いざなぎ景気からニクソン・ショック

1965(昭和40)年末ごろから続いた好景気は、1970(昭和45)年に入って後退を見せ始める。1970年は、3月に日本およびアジア初の国際博覧会である日本万国博覧会(大阪万博)が開催され、同月には「よど号」ハイジャック事件、さらに11月には三島由紀夫が自衛隊の市ヶ谷駐屯地にて自衛隊の決起を呼びかけた後、割腹自決を図るなど、何かと騒がしい年でもあった。
1971(昭和46)年8月には、アメリカ大統領チャールズ・ニクソンが、それまでの固定比率(1オンス=35ドル)によるドルと金の交換を停止することを突然発表した。いわゆるニクソン・ショック(ドル・ショック)である。日本と対照的に国際収支において大幅な赤字であった米国が、ドル危機を回避するために行った対策だった。
これにより、世界の為替相場は混乱した。ヨーロッパ各国は固定為替相場制を停止し、変動為替相場制に切り替え市場を再開した。日本は、日本銀行が固定為替相場制をしばらく守っていたが、国外からドル売りが殺到し、ついに変動為替相場制に切り替えた。こうした為替相場の混乱を収束させるために、同年末、米国スミソニアン博物館で米国・日本など10カ国の大蔵・財務大臣による会議が開かれ、円は16.88%切り上げられ1ドル=308円のレートで固定為替相場制が再開された。しかし結局のところ、米国の国際収支は改善せず固定為替相場制が維持できなくなり、1973年に日本もヨーロッパも変動為替相場制へと再移行した。以降、変動為替相場が現在も続いている。つまりニクソン・ショックにより、世界経済はその枠組みを大きく変化させたのである。

●オイルショック 物価狂乱時代へ

1971(昭和46)年の円切り上げにより、日本の不況は深刻化した(46年不況)。しかし、科学機器業界はまだ輸出比率が少なかったため、大きな打撃は受けなかった。なお、この1971年は、さまざまな問題を残しながらも沖縄が米国より返還されることになった歴史的な年でもあった。
高度成長期時代に長きにわたり政権をとっていた佐藤内閣であったが、1972(昭和47)年に退陣した。代わって7月に、「日本列島改造論」を掲げた田中角栄内閣が成立した。9月には、田中首相が現職首相として初めて中華人民共和国を訪問、日中共同声明に調印し、日中両国の外交関係が回復された。1973(昭和48)年になると、国土庁の設置が決定され、田中首相の日本列島改造がスタートした。これは、新幹線と高速道路などの交通網や情報網を全国に張り巡らし、経済と物流の流れを都市から地方に分散させることを目的としたものだった。
これにより、日本列島改造ブームが起き、開発の候補地の土地の買い占めが行われることにより地価が急激に上昇するなど、物価が上昇してインフレーションが発生した。
これに対し、政府は「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律」を公布し、生活関連物資等の価格の安定を図ろうとするが、効果はみられなかった。さらに10月には、第四次中東戦争をきっかけとして起きたオイルショックが日本を襲った。石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシャ湾岸の6カ国が、原油公示価格を70%引き上げることを発表したのである。日本も含め、エネルギーを石油に依存してきた国々は、大きな打撃を受けた。
原油価格高騰によりインフレーションはますます進み、狂乱物価といわれるほど、日本経済は混乱した。また、トイレットペーパーや洗剤を買い占めるという社会現象も起きた。
科学機器業界においても、機械類は部品不足、硝子類は原油の割当高が減少し、生産高が減少している状態であった。
そんな1973年ではあったが、10月には江崎玲於奈博士がトンネルダイオード研究の功績が認められ、ノーベル物理学賞を受賞。日本の科学技術界に明るいニュースをもたらした。

●石油試験器部会 初の訪中、技術交流を図る

1972(昭和47)年に日中国交が正常化したことにより、もともと国交はなくとも友好貿易を行っていた中国との経済的交流がさらに拡大していった。
日本科学機器団体連合会では、1976(昭和51)年、石油試験器部会が訪中する機会を得た。なぜ訪中に至ったかというと、中国が大慶油田及び大港油田の開発に成功して、石油産業が目覚ましい発展をし、日本では中国の原油の輸入を増大させる傾向にあった。石油試験器部会は、中国の石油精製ならびに石油化学工業における試験器の問題に大きな関心を寄せていたのである。
そこで、日本国際貿易促進協会の斡旋により、中国国際貿易促進委員会と話し合いが進み、中国側から招へいされて、石油試験器に関する技術交流座談会という形の技術交流が実現した。また、石油連盟の協力を得て、団員に石油試験・分析技術の専門家を加えることができた。
この技術交流代表団は、当時の日本科学機器団体連合会会長 矢澤英明氏を団長に、1976(昭和51)年3月8日から23日まで、16日間という長期にわたる滞在だった。この間、中国各地から来た30名の技術者に、技術座談会という形式のもと、団員が20のテーマで講義を行った。当時の中国は、文化大革命の終末期で、いわゆる「文革四人組」が政権を握り、極端な政策を実行していた。しかし、受け入れ窓口であった中国化工学会によって、技術交流代表団は各地で歓迎されたことが報告されている。報告文には「友好的に、また技術的にも、意義ある成果を収めて終了」したことが述べられている。


訪中石油試験技術交流代表団メンバー
団長:矢澤英明(日本科学機器団体連合会会長)
団員:吉田留五郎(石油試験器部会部会長・吉田科学器械社長)
   下平武 (田中科学機器製作社長)
   酒井隆 (日本油試験器工業社長)
   村橋素介 (離合社専務取締役)
   鈴木作世 (明峰社製作所専務取締役)
   今井文夫 (日本石油中央研究所)
   稲葉清彦 (大協石油製油部)
   柳田敏男 (東和観光貿易営業部)

※日本科学機器団体連合会石油試験器部会……1958年に当時の日本理化学機器商工会の部会として発足した。当時、毎年、商工会に工業技術院標準部よりJIS企画原案作成委託が来たことから、同部会が活動することになった。

●連合会技術交流訪中代表団の派遣

中国では、文化大革命が1976(昭和51)年9月の毛沢東死去で終結した。その後は華国鋒が後を継ぎ、1978(昭和53)年12月には鄧小平が政権を握り、資本主義経済導入などの改革開放政策を取り、近代化を進めていた。1980(昭和55)年、天津日本自動化工業技術展覧会が開催され成功を収めると、中国の日本の技術に対する関心が高まっていった。
そんな中、科学機器業界としても、対中貿易を推進することが重要な課題の一つとなった。そこで、1976(昭和51)年に訪中した日本科学機器団体連合会石油試験器部会が中心となり、連合会技術交流代表団の派遣を企画した。そして、1983(昭和58)年8月に実現され、28日~9月9日の13日間の行程で行われた。
団長は、日本科学機器団体連合会会長の矢澤英明氏、団員は12名で、瀋陽で開催される日本自動化工業技術展覧会に併せて瀋陽-大連-北京-杭州-上海という旅程が組まれ、見学と講演を実施した。同代表団は講演を通し、交流活動を深めていった。
講演のテーマから、当時の代表団の性格を伺い知ることができる。同代表団はこの技術交流で得た教訓として、「私達が技術的に常に優っていることが大切」と報告している。
【講演テーマ】
日本の科学機器業界の現状について
日本の科学教育と教育用理科機器業界の現状について
日本における理化学硝子機器製造業界の現状について
日本における石油類試験器の現状について
日本における熱計測器について
日本における純水製造装置について
日本における簡易水質測定器について

その後も連合会の対中交流は継続して行われていた。
1985(昭和60)年11月17日~23日に開催された「第1回北京分析測試学術報告会及び展覧会」には、視察代表団を派遣した。
また、1987(昭和62)年10月20日~ 26日に開催された「第2回北京分析測試学術報告会及び展覧会」には、出品参加者とともに視察代表団を派遣、中国科学院要人との交流に大きな成果を挙げた。

●オイルショックから安定成長の時代へ

1973(昭和48)年のオイルショックは、日本の科学技術政策に、絶大なるインパクトを与えた。資源の少ない我が国において、エネルギー利用の効率化、省エネルギーの推進に向けた研究や、石油に代わるエネルギーの利用、特に原子力エネルギーの開発などが活発化してきた。
この頃の日本は高度成長期から安定成長の段階へと入っていった。この変化は科学技術の流れの向きも変えた。1976(昭和51)年2月に開催された科学技術会議では、「国民生活に密着した研究開発目標に関する意見」及び「エネル ギー科学技術の推進に関する意見」を内閣総理大臣に提出した。「国民生活に密着した研究開発目標に関する意見」においては、科学技術による国民生活の向上という観点に立ち、健康、安全、保健医療などの分野において、国として推進すべき研究開発分野を具体的に指摘した。
「エネルギー科学技術の推進に関する意見」においては、エネルギー研究開発に関する基本計画の策定、研究開発に要する重点目標の設定及び研究開発の効率的推進の必要性を指摘している。 この意見が、その後の医療システムや公害対策システムの1993年3月、日本化学会春季年会付設展示会の会場 開発に大きな影響を与えて、関連機器の開発を促進させることになった。

●遺伝子工学、生命科学の研究が進む

高度成長期が終焉を迎え、日本の科学技術はエネルギー関連を除けば、全体的に停滞傾向であった。ところが1970年代の後半には、生物工学(バイオテクノロジー)の分野において、遺伝子工学が登場。1975(昭和50)年、ポール・バーグによる最初の本格的な遺伝子組換え実験をきっかけに、人工的遺伝子組換え技術が知られるようになったのである。
また、生命科学(ライフサイエンス)が注目されたのもこの頃で、科学技術庁は1977(昭和52)年にライフサイエンスの事業に着手することを決定した。
このように安定成長期では、遺伝子工学を含むバイオテクノロジーやライフサイエンスの分野において新しい研究課題が生まれた。それを反映してか、1976年から1980年にかけて、民間企業の研究開発投資が活発になってきているのである。 また、新たな研究課題を得たことは、科学機器のマーケットを拡大させるとともに、機器の開発にも大きな影響を与えた。そのため、科学機器業界はさらなる発展を遂げていくのである。

●コンピュータ時代へ

1970年代後半は、マイクロコンピュータが大きなインパクト与えた時代であった。家電をはじめあらゆる産業でその応用が急務となっていた。科学機器においては、高い精度と迅速な計算結果が求められる分析機器や計測機器の分野で、マイコンの技術を応用した開発が進んでいった。
その一方で科学機器の主要分野である汎用機器ではまだマイコンの応用は立ち遅れていた。そこで、東京科学機器協会では、1977(昭和52)年に「マイクロコンピュータ応用技術講演会」を実施。予定よりも多くの申し込みがあり、マイコンに対する関心が高まっていることを裏付けた。

●ACHEMA、PITTCONの出展に向けて

1973(昭和48)年に、東京科学機器協会と大阪科学機器協会が初めてACHEMA’73視察団(総勢191名/団長:矢澤英明理事)を派遣して以降、ACHEMA視察は恒例の事業として定着した。
1979(昭和54)年、第3回目のACHEMA’79視察後、視察団員も参加した関連会合などで、「ACHEMAへの出展」が提案された。
当時の日本科学機器団体連合会会長の矢澤氏は、この提案に対し、「科学機器」1979年8月号の巻頭言に以下のような言葉を掲載している。

「ACHEMA展の展示をみて、我が国との製品の比較から、自信を深めた業者は多かったことと思う」

この頃の日本製科学機器は、世界的な水準に達していたことが推測できる。さらに、矢澤連合会会長は、ACHEMA出展に対し熱意のある会員が多ければ、協会としても実現に努力したいと述べている。
そして、1982(昭和57)年の第4回ACHEMA’82視察団の派遣後、次回の1985年の開催には日本ブースを設営することを決定し、ジェトロの協力を得て、ACHEMA’85出展に向けて動き出した。

一方で、業界内では、米国で開催される世界最大級の分析・理化学機器の展示PITTCON(ピッツコン:Pittsburgh Conference on Analytical Chemistry and Applied Spectroscopy)への期待も高まっていた。PITTCONは、出展料を払えば規模の小さな企業でも出展できるところが特徴で、そのため世界中から多くの企業が参加していた。 この頃は、先にも述べた通り、バイオテクノロジー研究が盛んになっていった時代で、研究に不可欠である分析技術もともに進化していった。そうした背景もあり、PITTCONへの関心が深まっていったのである。
1983(昭和58)年、連合会はこの事態を把握するために、実際にPITTCONに出展した業者の参加を得て、座談会を開催した。その終了後、矢澤連合会会長は、PITTCONが科学機器業界にとって魅力的な展示会であること、ACHEMA’85への出展準備も進んでいるが、アメリカにも目を向ける時期に来ていると述べた。
そして、1984(昭和59)年に開催されたPITTCONに視察団を派遣した。これは、視察とともに翌年の出展の準備も兼ねた派遣だった。また、すでに1985年のACHEMA出展が決まっており、その点でもこの視察は大きな意義を持っていたのである。
視察団の参加者は、東京科学機器協会から17名、大阪科学機器協会から8名、東海科学機器協会から3名の合計、28名で、チーフリーダーは矢澤英人氏、サブリーダーは吉田肇氏、アドバイザーに下平武氏という構成だった。
視察中は翌年の出展に向けて、次回のPITTCONの会長との面談を果たすなど、多くの交歓の機会を得ることができた。

●PITTCON出展が実現 国際化が急速に進む

1985(昭和60)年2月25日から28日までの4日間、米国ニューオーリンズで開催されたPITTCON’85に日本ブースを設置、日本科学機器団体連合会として初の出展を果たした。実現にあたっては早い時期からジェトロの協力を得ることができ、共催による出展となった。
このPITTCON’85は視察団と出展団という体制で臨んだ。出展団団長・下平武氏、出展団副団長・伊藤勝通氏、視察団団長・三田村伍郎氏、出展団は17社・34名、視察団は21社・32名であった。
この出展では、メーカーにおけるマーケティングの重要性が浮き彫りになった。メーカーとしての姿勢を明確にしていることが重要であり、それによってはじめてアメリカ市場で信用を確立することができ、代理店も熱心に取り組んでくれることを教訓として得たのである。
会期中は、SAMA(Scientific Apparatus Makers Association 科学装置製造者協会)のGraydonr,Powers, Jr 会長より、「同じ業界にはたらく一員として、ぜひ各国間の意見交換の場をつくろう」と呼びかけの言葉を受けたという。
翌年1986(昭和61)年のPITTCONにおいても、ジェトロとの共催で日本ブースの出展を果たした。この年は、3月10日から14日までの5日間、米国アトランタで開催された。
出展団は、団長に柴田晴通氏、副団長は前回に続いて伊藤勝通氏、出展社数は16社であった。視察団団長は馬場信行氏が務め、13社・14名が参加した。展示会の2日目には、SAMAの事務局長のアブトン氏、英国制御・自動化機器工業会のGAMBICA( The GAMBICA Association Limited)の事務局長アノルース氏と、フランスのSalon du Laboratoire(フランスの研究・実験用機器の展示会)の事務局長ニッコ女史が来訪した。そして、同年の6月4日に「Analytica’86(国際ラボテクノロジー・分析機器・バイオテクノロジー専門見本市)」が開催されるドイツ・ミュンヘンで日・米・英・西独・仏の業界代表の会談をもち、今後の科学機器業界のあり方について協議したいとの申し入れを受けた。
後述するが、この前年に開催されたACHEMAにおいて、SAMA会長がすでに同様の提案を矢澤連合会会長に申し出ていたのである。 また、同日にはスウェーデン産業新聞の記者がブースに訪れ、日本の科学機器メーカーについて取材を行った。その記者は、「日本の科学機器の業界がこれから力をつけて強大なものになってくると考えている。このことは、次のACHEMAで実証されるはずだ」とコメントし、ACHEMAでの再会を約束したという。以上のようにこの頃は、国際化が急速に進み、また日本の科学機器業界が先進国との交流を得て、そして深めていった時代だといえよう。
〈注記〉GAMBICAは、1981 年に 3 つの製造業の協会、SIMA(Scientific Instrument Manufacturers’ Association)、BIMCAM( British Industrial Measuring & Control Apparatus Manufacturers)、CAMA(Control and Automation Manufacturers’ Association)が統合して発足。2001 年にさらに BLWA(British Laboratory WareAssociation)を吸収。

●ACHEMA出展へ

1985(昭和60)年PITTCONへ初の出展を果たした約4カ月後、6月9日~ 15日までの7日間、ドイツ・フランクフルトでACHEMAが開催、日本科学機器団体連合会は日本ブースを設営し、初の出展に臨んだ。出展団リーダーは伊藤勝通氏、出展会社は7社で、そのうち5社は先のPITTCONにも出展していた。視察団及び出展団の総勢は、129名に及び、矢澤連合会会長が総団長を務めた。  このACHEMAでは、コストについても国際的な視点が重要であること、特にヨーロッパ市場における「高付加価値製品の開発とコスト」の問題について、新たな認識を持つことができた。そして、国際市場におけるコストの問題が今後の研究課題となったのである。
 1988(昭和63)年には、2回目のACHEMA出展を果たした。ジェトロの支援を受けて、ジェトロ/連合会の共同ブースによる出展であった。出展者数は11社で、前回よりも増加をみることができた。ブースにおいては、英文ガイドブックや同年に開催される第22回全科展の招待状を配布、またビデオによる日本産業と展示会の紹介を行い、出展社への支援に努めた。
 ACHEMAでは世界中からユーザーやディーラーが集まるため、活発な引き合いがあったが、このときの為替レートは120 ~ 130円と、前出展時の1ドル250円の倍になっており、かなり厳しい状況であった。
 1989(平成元)年10月には、ACHEMAを主催しているDECHEMA(西ドイツ化学工学会)と中国化学工学会が共催して、「ACHEMASIA’89」が中国、北京で開催された。日本科学機器団体連合会はジェトロの支援のもと、ブースを設置、5社が出展した。しかしながら、この4カ月前に天安門事件が発生、北京は混乱のさ中にあった。開催者の努力で中止には至らなかったものの、経済的な成果は乏しかった。そのため、中国市場に対しては長期的な視点を持つ重要性を認識させられた出展となった。